研修会では、知的障害児教育の開拓者であるエドゥアール・オネジム・セガン(1812-1880)の軌跡を、川口幸宏氏(学習院大学教授)が現地で調査入手された豊富な史資料・写真と解説に導かれながらたどることができた。セガンといえばルソー、イタール、精神薄弱児教育、教具、モンテッソリーという図式理解しかない私であったが、サン・シモン主義、山岳派、施療院・救済院、病弱児教育というキーワードからの考察を通して多くの示唆をいただいた。そして「精神の、感情の異邦人」(ウージェーヌ・シュー「パリの秘密」1842-1843)として闇の中に放置されていた知的障害者に対し、教育の力による人格発達の可能性を見出し、市民、同胞として社会参加する権利の実現と「普遍化」をめざしたことの意義、病弱教育施設とのつながりを知るなど、小さなパリ旅行をしたような2時間であった。
川口氏によると、当時すでにパリの病弱児施療院(1802)内に病児のための学校が創設されており、その院長ゲルサンを介してセガンはイタールと出会い、1838年よりイタールの指導のもとに「白痴」児の教育を試み、1841年からは「白痴の教師」という公的肩書きで実践の「普遍化」をめざしていった。
病弱教育史に関心のある私としては、病弱児施療院内の学校で、子どもがどのような教育や医療を受けていたのか、また当時の医学や医療レベルについてとても気になった。この時期、1833年の初等教育法(ギゾー法)によりはじめて小学校の設置義務が制度化されるが、義務制・無償制・非宗教による一般大衆の初等教育や教員養成の普及は1880年代に入ってからである。この時点では、家庭での教育も義務教育とみなされたようだが、病院内の教育は今日のような訪問教育とはおおよそかけ離れたかたちであっただろう。セガンの考えた「生理学的方法」の中にヒントがあるのかもしれない。
また、ラエネック(パリ派)が聴診器を発明したのが1816年、英語圏に定着したのが1850年頃、X線や喉頭鏡、検眼鏡などで身体内部を検査できるようになるのは19世紀後半といわれている。セガンが白痴教育にかかわった時期は、問診をもとにした主観的判断から、聴診器を使って身体症状を細かに観察し、臨床的な判断を重視するようになる時代と重なっているようだ。素人の憶測ではあるが、身体に聴診器をあて、聴いて、見て、触って総合的な診断をするようになったフランス医療は、人間観の変化につながり、子ども観や教育観にも少なからず影響を与えたのではないだろうか、教育と医学の関係について思いをめぐらせた。
一般的に、セガンは障害児教育史上の人物として知られているが、それだけではなく19世紀フランス、さらに今日の教育と医療を考えるもうひとつの窓のようにも思えた。なお、病弱児施療院はネッカー子ども病院という名で現存しており院内学級があるとのこと。川口氏が紹介された写真では大病院ではなさそうだが、同病院がどのような歴史を経てきたのか、ますます興味が広がっていった。
障害をもつ子どもの教育の歴史をみると、セガン、アユイ、ブライユ、レペ、ハウなど諸外国には必ずその開拓者が存在し、日本にも大きな影響を与えている。一方、病弱教育は19世紀後半にデンマーク、スイスに始まり、20世紀にドイツの林間学校、イギリスやアメリカのオープンエアスクールが開設され、日本には明治~大正時代にかけて紹介され、その後開放学校、露天学校(養護学校、養護学級)の設置へとつながっていった。しかし、病弱教育に関わった人物やその実践、制度化の過程はあまり明らかではない。今回、フィールドワークを大切にされている川口氏のセガン研究とその方法に触れることができ、外国を視野にいれた新たな病弱教育史の手がかりが見えてきたことを実感している。